2013/03/02

2013 02 久曽麻留石を訪ねて

2013 02 久曽麻留石を訪ねて
久曽麻留石

はあ~るば~る来たぜ~「函館」ではなっくって、「生駒山の久曽麻留石」に。
全国一億三千万の久曽麻留石ファンの皆様方お今晩はでございます。

なんと香ばしい臭いが辺り一面に漂うネーミングでは無いでしょうか!
あくまでもネーミングだけなので、心配御無用でございます。
心配性の方は鼻にキムコでも括り付けてはいかがでしょうか、鼻が重いけど。

とある日、「久曽麻留石探険隊」は生駒山上のケーブルーカー駅に威風堂々と到着す。
サ・ム・イ 生駒山のテッペンは寒いです。
日陰にはしっかりと残雪が残って、下界は雨でも山上は雪の様だった様でございます。

まずは「久曽麻留石探険隊」御一行様は「鬼取山 鶴林寺跡」に寄ることになりました。
そうです、名号板碑 文亀二年(1502)八月 を見学、
「うつぶせ地蔵・峯の薬師跡十三仏  永正七年(1510)」より古い~と力説するS氏の言葉に、
その差8年の重みに考え耽ったのでございました、たぶん。

なお、鬼取町に下山した現鶴林寺にも、六字名号板碑 永禄十年(1567)が、
いったい戦国時代の「鬼取山 鶴林寺跡」に何がおこったのか?

「久曽麻留石探険隊」は乱立する電波塔の下を歩き、暗峠へと下山開始。
途中ドライブウェイの展望台を越えてチョイ下れば、
そこが「久曽麻留石」でございます、登山道から丸見え。

「探険」してないんですけどね、まるっきり。
それでも「久曽麻留石探険隊」の前に「久曽麻留石」がそびえ立ってるわけです。
正確に表現するのならば、横たわってるです。

本日のコース
生駒山上駅ー鬼取山 鶴林寺跡ー乱立する電波塔の下ードライブウェイの展望台
ー久曽麻留石ー暗峠ー裏暗峠街道(自称)ー鬼取町ー小倉ーカンジョウの森 地蔵
ー生駒駅(美◎座)

2013 02 久曽麻留石を訪ねて

久曽麻留石の大きさがわかる様に、
久曽麻留石探険隊に乗かってもらいました。

ところで「久曽麻留石」って何とおっしゃるあなたに。

生駒市の寺院2   鬼取山鶴林寺     新田義円
ふるさと生駒  第3号   昭和55年7月   生駒民俗会より

一般には役行者が前鬼後鬼の二鬼を獲らえた所が鬼取山で、
そこに開いた寺が鶴林寺であるとする。
又生駒山を西に越えて河内側で二鬼の髪をおろさせた所が髪切山と言い、
そこに創めた寺を慈光寺だとするのである。
クソマル石、奇妙な名だが、切られた前鬼後鬼の髪を埋めた所に据られたものだと言う。

民俗編   久曽麻留石の探索   藤本寅雄
ふるさと生駒  第10号   昭和57年4月   生駒民俗会より

役行者が「カミソリ」を砥いて前鬼後鬼を坊主にした伝説のある、

なる程~そういうわけだったんですか・・・
で、なんで、「久曽麻留石」のネーミングなの?
そんな突っ込みは、許されません。

2013 02 久曽麻留石を訪ねて
鬼取山  鶴林寺跡    名号板碑 文亀二年(1502)  八月

けっこう、お逢いになって無い人が多いんではありませんか。
うつぶせ地蔵・峯の薬師跡十三仏は見てても。

2013 02 久曽麻留石を訪ねて

落ち葉に埋まってました、右下に、文亀二年と。

2013 02 久曽麻留石を訪ねて

裏暗峠街道(自称)を歩いて生駒駅へと。

2013 02 久曽麻留石を訪ねて

この道は暗峠道より歴史は古いのでは、
文字どおりの住みかと住みかを結ぶ道だったのでは。

2013 02 久曽麻留石を訪ねて
カンジョウの森(春日の森)

バラバラになってた地蔵様が合体完了!
タブーであるはずのカンジョウの森が、
なんとGIカットされちゃってます。
南無阿弥陀仏でございます。
橋上政権下の日本もこんな状態になるんでしょうか!?


生駒・矢田丘陵 | Comments(16)
Comment
No title
クソマル?

クソマル谷という名前につく谷が金剛山にあるようです。
ちなみに、私は、まだ登っていませんが。
かなり危険だとか。
金剛山にも、面白い名前の地名が多いです。

No title
なんとクソマル谷ですか。
味わい深い谷なんでしょうね。
香りの違いの判る人に登ってもらいたい谷なんでしょうね。
危険度がますます誘います、私はパスしますが。

しかし、「クソマル」命名の訳はなんなんなの?
ケース バイ ケースなんでしょうが?
う~ん、なんなのでしょうね。

クソマルの神話学(単行本)東 ゆみこ (著)を読めばわかるかも。

ちなみに、この東ゆみこさんと言う方は、某大学の講師をされているれっきとした学者さんだそうでです。


また、Wikipediaには、下記の通り記載されていました。


排泄を意味する古語動詞は「まる」で、「くそまる(脱糞する)」「ゆまる(小便をする)」の ように用いられた。おまるという語に今も残る ...


つまり、クソマル谷は、山のドツボに当たる谷ということになりましょうか。
No title
検索すると、なんと、出るは出るは「クソマル谷」が、
思わず拭き取りましたけどね。

しかし、「久曽麻留石」は出てこないぞ!
便秘気味なのか、はたまた無名なのか。

「久曽麻留石」の現在地は山のドツボでは無く、
南向きでスポットライトが当たる場所なんですけど。
ちょっと、だけよ~のステージを思い浮かべてもらうと、
理解しやすいと思います、たぶん。

鬼の雪隠からのパクリで、同じではおもろ無いから。
「久曽麻留石」でイコカですかな。

「久曽麻留」の関連情報として、Webサイトから、次のような情報を仕入れてきましたので、ご参考まで。
『トイレで笑える雑学』講談社で、南方熊楠が古代の人名を次のように記述しているようです。

☆☆
紀貫之は幼名を阿古久曾麻呂(あこくそまろ)という。
阿古は吾子で久曾は糞と同音。「わがウンコちゃん」というわけ。ほかにも、押坂史毛屎(おしさかのひとけくそ)、錦織首久僧(にしきこりのおびとくそ)、阿部朝臣男屎(あべのあそみおぐそ)、卜部乙屎麻呂(うらべのおとくそまろ)これが男の部門、女性部門では、巨勢朝臣屎子(こせのあさみくそこ)、下野屎子(しもつけくそこ)がある。

今ならイジメに合いそうな名前だが、古代には排泄物には呪力があるという信仰があって、魔よけの意味がある。
「丸」という名前も頻繁に使われている。「丸」はおマル(便器)の意味で、屎の付く名前と同じ願いからつけられた。

『語源辞典』で「おまる」を調べると、幼児や病人が用いる持ち運びできる便器。動詞マル(放る)の接頭語「お」がついてできた語。単に「まる」といっていたこともある。

『古事記』にマルは「殿には尿まり散らかしき」とあり、排泄する意の 動詞とある。
古代は、自分のことを「まろ」といい、卑下した意味に用いていた。が、平安時代から親しみのある言葉となり、果ては小児の名に何丸などと呼んだ。そして、ついには高貴な摘子か寺院のみに用いられるようになり、下層階級でははばかるべき文字になった。☆☆


このことから、「久曽麻留石」には、呪力があるという信仰があって、魔よけとして祀られていたのではありませんか。
No title
お勉強になります!あんがとさんです。
ウンコちゃんの長くて太い歴史が目に浮かぶ様でございます。

「久曽麻留石」には、前鬼後鬼の呪力が宿っているんですね。
暗峠から上がってくる時は必ず、
前鬼後鬼様にお祈りする事にいたします。
「今年もホッケと出合えます様に」
金糞山を知っていますか?
お誕生日の小旅行で富山・金沢を訪ねてきました。

京都からサンダーバードで辿る道々、右手には近江富士(登山したね)も見えたし、
左手には蓬莱山(やがて登るかもね)。
やがて7インチのタブレットが示してくれたのはなんと「金糞山」。
マジですか(^_^;)?

タケチャンマンさまとokaさまのコメント欄で勉強していた私はすかさず
「呪力があり、魔よけとして祀られている山よきっと」と申しました。

夫は「ふーん」と感心しました。
祝 金糞山
出、出、出ましたね「金糞山」
ウォームスらしいではありませんか。
ここは「糞」評論家のokaさんに解説を御願いしたいんですが、
いつまでもokaさん頼っていてはダメですから。
グルグルしたら、出るは、出るは、出るはで、
「金糞山」のてんこ盛りでございます。
絶対に一回では流れない量ですね!

日本人はホントに「ウンコ」が大好きなんですね。
私の生まれた岐阜では「ウンコ」でしたが。
みなさんの故郷ではどんなネーミングでしたか?

当然、私のちびっ子の時はアラレちゃんの様に、
公園でみんなで遊んでて「ウンコ」を発見すると!
小枝で突っついたり、串刺しにしたり、振り回したりと、
それはもう脱法ハーブ状態でございました。
「ウンコ」には、覚醒作用があるのは事実ですね。

>夫は「ふーん」と感心しました。
ここは「ふーん」ではなく「うーん」の方がOK!

最後にサンダーバードは何号でしたか?
私のお気に入りは、なんと申しましても2号です!
コンテナから何が出てくるのかな~
No title
金糞山の登山口に立ったことがあります。

旧春日村の国見峠です。ここから、金糞山とは反対方向の、伊吹山へ尾根伝いに歩きました。
風が強くてね、今でも、ハッキリ覚えています。
そうそう、縦走の途中、ツキノワグマを見たという登山者に出会いました。

> みなさんの故郷ではどんなネーミングでしたか?
父は大阪ですが、ババと呼んでいました。やはり下品ですかね。

昔、今みたいにクルマが走っていなかった頃、馬や牛が荷物を運んでいたのですが、道端に、ババを落として行くのです。
それを、箒と塵取りで、すかさず、片付ける人がおりました。
今で言う、美化ではなくて、自分の畑に、肥料としてまくのです。
昔は、無駄なものはなく、みんな有効利用していたんですね。
No title
>父は大阪ですが、ババと呼んでいました。やはり下品ですかね。
この世に下品なるモノは存在しないのでは、
お下劣な人間はいても、たぶん。

>昔は、無駄なものはなく、みんな有効利用していたんですね。
私は思うんですが、この世には、
何ひとつ無駄なモノなんて無いんではと、
例外がホモサピエンスでしょうか、
自然界の厄介者の決定版、本日二回目のたぶん。
ペコリンコ。

鶴林寺初代住職の墓?
タケチャンマンさん、新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、タケチャンマンさんと私は偶然同じころそれぞれ勝手に「うつぶせ地蔵道」に目をつけて探索していたのですが、初めてお会いしていざ二人で旧鶴林寺を出発しましたところ、タケチャンマンさんは八大竜王の下を回られる道(タケチャンマンさんが後に一階部分と表現されています)を、私は鶴林寺跡から同じ標高をずっとそのまま南奥へ進む(こちらは先ほどの伝で言いますと二階部分になります。)道を主張するという訳で、同床異夢というか、入り口に間しては二人まったく別のルートを歩いていたことがわかりました(笑)。「生駒の古道」では当然タケチャンマンさんをルートが採用されていますが、

>鬼取山 鶴林寺跡 名号板碑 文亀二年(1502) 八月
>けっこう、お逢いになって無い人が多いんではありませんか。
>うつぶせ地蔵・峯の薬師跡十三仏は見てても。

このレポートにあります上記の名号板碑は私の異説ルート(二階部分)に位置していますね。私はこの石造物の集積に惹かれたこともありこちらの道をとりました。
 さて、本日久しぶりに己の説に操を立てて(笑)その名号板碑を含む石造物集積を見てきました。その中でひとつ気になる石造物を見つけました。
 表記は「開祖、鬼取山初代 譜門院円珍 嘉永五年三月八日(この下埋もれて見えず)」
 これはお墓であろうと思われます。古くなったお供え(お花)もありました。鶴林寺は江戸時代に現在の場所に移転したと聞きますが、当初住職の墓は旧地に設けたということだったのでしょうか。
 そしてこの墓のことは 石造物遺跡報告書には当然載っているのでしょうね。
本年もよろしくお願いします
jack77bettyさん、本年もよろしくお願いします。

>石造物遺跡報告書には当然載っているのでしょうね。

いま見ましたところ載ってないみたいですね。
名号板碑 文亀二年(1502) 八月も スルーです。
平成版でもけっこう載ってないモノがあるようです。

鬼取山鶴林寺は、ほとんどわかっていないようです。
当然、発掘調査もしてないし。
今の時代のその筋(教育関係者)のレポートも無いんではありませんか、たぶん。

「鬼取山一切経」願主は僧定円は天台宗の方のようで。
「開祖、鬼取山初代 譜門院円珍」を平安時代の天台宗の僧とするなら。
幕末の時代に僧円珍を忍んだのでしょうか。

「大乗院寺社雑事記」寛正三年(1462)八月二十四日
「昨日より伊狗寺ヲントリ焼亡弾学相論事故」
今の国会もこれくらい議論してもらいたいものですが!?

今は昔、鬼取山鶴林寺にはjack77bettyさんにわたしぐらいしか、
訪れる人がいないようです。
猫のたま駅長ではないですが、
鬼取山鶴林寺の「僧シャンシャン」で売り出せないのでしょうか、無理かな。
円珍
タケチャンマンさん。おはようございます。
私は、鶴林寺は、幕末に現在の場所に移転したように聞いたと思いますので、嘉永の年号から、移転後の初代の方のお墓を元の地に立てたかと思っていました。「円珍」は歴史の教科書にも載るほどの有名僧ですが、偶然同名かと・・・
タケチャンマンさんのお話によりますと、あれはお墓ではなく顕彰碑のようなものということですね。だとしますと、日付の後、地中に埋もれて読めない部分には命日ではなく建立とあったと推理できますね。ご教示ありがとうございました。
さて、天台宗において円珍と並び称される円仁には、開祖伝説を持つお寺が東北地方を中心として数多く存在しますが、円珍の開祖伝説を持つ寺は私は知りませんでした。三井寺初代は史実ですから除くとして、他所にもそのような例はあるのでしょうか。
何はともあれ、寺伝ではそのように伝えられていたということが判ってますます興味が増えました。
話は飛びますが、大和国では天台宗はどうも劣勢のようで、最も有名なのは当武峯妙楽寺ですが、興福寺にいじめられて、たびたび兵火にかかっています。
>「昨日より伊狗寺ヲントリ焼亡弾学相論事故」
天台の劣勢はこの生駒でも同じだったのかもしれませんね。
とっても楽しいですね
>私は、鶴林寺は、幕末に現在の場所に移転したように聞いたと思いますので、

私も戦国時代に焼き落ちたとか、
江戸時代に今の場所に移ったとか聴いてますが。
ハッキリとはわからないみたいです。
機会をとらえて誰かれとお聞きしましたが。
「鬼取山鶴林寺」のことはワカラン~と言われました。
ようするに具体的に言えるような物的証拠(古文書等)が極めて少ないようです。
私が目にしたのは「鬼取山一切経」と「大乗院寺社雑事記」に「昨日より伊狗寺ヲントリ焼亡弾学相論事故」ぐらいでした。

願主の僧定円が天台宗の方でも、
私は「鬼取山鶴林寺」は真言系ではと思ってますが。
その当時に御近所には髪切山慈光寺に神感寺もあって。
生駒山あたりは真言系のワンダーランド(マウンテン)化してたのではと。
「鬼取山鶴林寺」は延暦寺のように学問寺の性格も帯びてたのでは。
「昨日より伊狗寺ヲントリ焼亡弾学相論事故」とありますし。
南都よりはフレンドリーだったのか?
南都(東大) 鬼取山鶴林寺(京大)みたいな、たぶん。

>あれはお墓ではなく顕彰碑のようなものということですね。

すいません、私の勝手な推測です。
同名の僧の方かもしれません。
ひょっとして鬼取の古文書に残ってるかもしれませんね。

こうしてみなさんと妄想してると、とっても楽しいですね (^_^)/~
鶴林寺
タケチャンマンさん、おはようございます。RESありがとうございました。
遠い昔はお寺の宗旨替えなど結構融通無碍だったのではないでしょうか。せっかく立派な文書が残っているのですから、天台が関係していた可能性はあると考えてもいいのではないかと思います。もちろん天台から真言に転向した可能性も、記事を読ましていただいた限りでは状況証拠のみのようですが、(最初に書きましたような理由で)十分考えられると思います。
ついでながら。ご存知かと思いますが、生駒市誌によれば現在の鶴林寺は無住になる直前は浄土宗一心寺派に属していたと書かれています。

閑話休題。昨日は宝塚市にある小浜宿を歩いてきました。まったくの偶然ですが、小浜宿資料館の館長さんが宿の説明の中で、「本夕の「プラタモリ」に小浜宿も登場する。」と教えていただきました。もちろん撮影は済んでしまっていますから、同じ偶然なら撮影の日と重なればよかったと思いました。(笑)
寒い日が続きます
生駒谷のお寺さんは真言宗から融通念仏に鞍替えが多いですね。
生駒谷に限らずでしょうけど。
民からすると融通念仏の方がメリットありということですか。
その時代になると真言宗は流行遅れになってたとか。
当然、権力者と宗派の駆け引きがらみがあってのことでしょうが。

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